歓声前夜の忘備録

見つけても秘密だよ

友①


今、現在進行形で電話している友達の話をしたいと思う。彼は今、日本にいて高校の同級生だ。また、最近はいろんなことに挑戦中で、私がブログを始めたのも多少感化された感があるのは否めない。


私が今日は電話してるし、君について書こうかなあ、とぼやくと「いいじゃんいいじゃん、彼は非の打ちどころのない完璧人間なのだ」とか書いてよと言われた。自分で言うほど嘘くさいものは無いと思う、これは間違いない。彼は全く持って非の打ちどころのない人間だとは思わないが、本当に豊かな人で大好きな友達であることは確かだ。


私は彼ほど寛大な人間に今後の人生で出会える気がしない。そしてコミュ力に関しても彼の右に出るものはそうそういないであろう。平成に続き令和でも企業が口を揃えて「コミュ力のある人材が欲しい」と言うのを見て、「おーい、ここにぴったりなやつがいるよ」と彼のことを教えてあげたい。

彼と話すと永遠に話題が尽きないし、それも、気を遣って色々お世辞を言ってみたり、特定の話題を不必要に避けたり、無駄に謙遜したりする必要もなく、ありのままの自分で話ができるのだ。


コミュ力の定義は非常に曖昧だが、十八番の面白い話をたくさん持っていることなんかより、日常から感じた本心を心置きなく話し、聞き出せることの方がよっぽどコミュ力が高いと私は考えている。


彼と高校時代、長い時間を共にした私の個人的見解ではコミュ力の高さというものは、感受性なしには成立しないと思う。あくまで個人的な意見に過ぎないが。


人は積極的に自分がつまらないと思う無関心な話などしない。基本的には自分が喜怒哀楽どんな感情であれ、少なからず心が揺れた出来事を他人に話そうと思うものだ。わざわざ友達に「今日廊下を無心で歩いたんだよね」と報告する人がいるだろうか。「昨日、告白したらOK貰えたんだよね」といったような、嬉しかったことや、もしくは悲しかったことを話すのが普通だ。

つまり、自分が感情を何も持たなかった出来事について、話そうと思うことは基本的にはないと思うのだ。話そうという発想に至らないと思うのだ。

そう考えると感受性の高い人間ほど話す話題は沢山あり、かつ、感情の伴った記憶は残りやすいということもあり、友達が言ったことから過去の出来事を話する機会も増えるのではないか。また、感受性の高いということは友達の話からも多くのことを感じられるだろうし、話をする友達からしても無心で話を聞かれるよりは、よっぽど話しがいがあると思う。


つまりコミュ力の高い彼は日常の些細なことから様々なことを感じられる人であり、さらに、友達や他人の気持ちに敏感で、人の感情を興味や思いやりを持って受け止められる人間なのだ。現代人の多くのように他人にどう思われるかばかりを気にしてコミュ力が欲しい、面白い話をしなきゃなどと喚き、身動きが取れなくなる前に、自分の感受性を失わず、感じたことをそのまま口に出すことがコミュ力の高さに繋がるのだと思う。


彼にはいわゆるミステリアスさやSっ気は微塵もなく、王子様ではないが、誰からも慕われる暖かな心を持った圧倒的な主役が似合うようなタイプであり、些細なことに喜びや悲しみを感じられる豊かな人間であることは間違いない。


きっと彼は自身のコミュ力やら感受性やらを、大したことのない日記の延長のようなブログでこんな長々と書いて欲しかったわけではなく、それこそ容姿端麗頭脳明晰な好青年として紹介されたかったのだろうがそんなことはしない。決して容姿端麗頭脳明晰ではないとは言ってるわけではなく、私は今まで彼の寛大さやコミュ力人間性に救われて助けられて魅せられてきたのであり、それらは容姿端麗さや頭の良さよりもよっぽど手に入れがたいものなんだよと、今電話している相手にわざわざ文章にして伝えたかったのである。いま思えば電話で言えばよかったようなことを他人に見えるところに書く必要もなかったがそれでいいのだ。明日も明後日も書きたいことを書いたい分だけ楽しく書いていこうと思う。


まじで夜更かししちゃった、3時だやばい、底辺ゆーちゅーばーのためにこんなに時間を使っちゃったよ、もうまったく恨んでやる(╹◡╹)!!!!

おやすみ、ぐんない!!